さかのぼること数ヶ月前。無性に江ノ島にいきたくなり、ひとり江ノ島参拝へ。
(そこから始まる いまさらのおでかけネタと、蛇足なあれこれです)
美しい水と自然のチカラで生かされているわたしに 旅での呼吸は欠かせないのだ。
家をでるときは曇空だったが、江ノ島の駅につくなり、梅雨の合間の晴天。
島では、まさに生き物の息吹のように 鼓動ある吹き抜ける風。
トンビとの戯れ。
それはそれは爽快な時間となった。
ひととおり参拝後、岩屋のある海岸で ふと見上げると これぞ龍神雲といううねった龍姿の雲がみるみる出来上がり、
あたまも尻尾もある まんまの姿に おそらくわたしだけが気づいて見上げてシャッターを切っており、
こそっと手を合わせるのであった。
その写真は ブログとかに投稿するのが畏れ多いほどで、放置していたのだけど
後日確認すると、なんとなぜかその写真がスッカラカンに 消えていた。(驚
そうこう過ごしていると、世の中では 沖ノ島の世界遺産登録の運びが。
宗像三女神。
と、そんなことは知らず 事前に予定していた 7月11日 琵琶湖 竹生島神社参拝。
滋賀って 妙に落ち着く。琵琶湖は 淡海というだけあって、母なる産みの大きな海だった。
歴史と、観光地としての面もあるだけに 独特の様相にはなっていたが
竹生島神社は 優しく気持ちよく、いつまでもいられる空気だった。
ここで、雌のトンビ?が飛んできて 鳥居のすぐちかくに立つポールに止まった。
お、キタっぽい。と思い トンビと意思疎通しようとしてると、
やはり隣でTK氏が 通信していた。
すると次の瞬間、母トンビが バサッと大きな翼を広げた!
ずーーーっと広げてくれている。
(写真では小さいけど↓なかなかの凄みだった)
初めてみた姿。珍しいよ。
ひとしきり意思疎通や証拠写真の撮影(笑)を終えると、ゆっくりと翼をとじた。
すぐ脇にある樹では、その母トンビのヒナが 鳴き声をだしていた。
母よ 生命よ。。ぼくらも翼を広げるよ
港へ戻ろうと移動すると、赤い小さな神社が。
黒龍なんとか神社とのこと。
手を合わせようと目を向けていると、鳥居の近くで隣のTKが 壊れた石畳にコケていた。
“寄れってことやな” とか言っていたが、冷静にみるとアホだった。笑
で、柏手を打つ…と
なんと社殿横に黒光りするトカゲが!!
シマ模様や白トカゲみたいなのは よく見るけど、
けっこうデカイ黒光りは めったにみないので興奮。
黒龍神社で黒トカゲって…まんますぎて関心した。
またひとしきり撮影すると、
黒光り神は なんと社殿のなかへお隠れなさった。笑
(弁才天の眷属の龍は、白龍や白蛇水神として可視化されたり祀られるけど、ちなみに 雄雌あったり とくになかったり、白龍はただ白いから ではなく いろいろタイプはある)
その続きかどうかはわからんけど、
その後 港でかき氷を食べて ボケッと口をあけて寝ていると
隣にいたTKが急に声をだすので
なにごとかと思ったら、わたしの足もとをトカゲ(黒光り神ではないw) が駆け抜けてゆき、
そして かき氷屋の その名も “たつや”さんのなかへ入って消えていったという。。笑
TK的には、隣のわたしの マヌケに開いた口から龍のような魂的な何かが出てきた! と思ったらしく
(まじめにそう思ったのかギャグで言ってるのかは謎)
角度でそのように見えたらしく、そいつがトカゲ(龍)で たつやに入っていったという
ギャグな奇跡たっぷりでした。
だから何だ という現象でしかないんだけれど、笑
笑わせてもらい有難い優しいキモチになれるし、それ自体が祓いだし、
こういうふしぎな神秘って表現は違えど 当たり前に いまも起きてるってことで。
その後は 琵琶湖の水が唯一流れる瀬田川、佐久奈度神社へ うだうだ移動。
風も水も優しく動きのある、清く素朴なお社、郷土でした。
瀬田川に浸かり、この穢れた心を禊いできたさ。笑
もはやエセスピ(失敬)分野で いちいち人気の瀬織津姫は、ほんとうはこの神だとか言われるけど
個人的には、いまのところ
祓戸大神の瀬織津姫と あっちやこっちの瀬織津姫は
(関連性はあるにせよ)明確にちがうし その場その場の生きたものだから、
ぜんぶがぜんぶが イコールでつなげて 妄想や勝手な都合広げるのって なんだかなぁ。だし、ほぼ世の中の役にたたないし。
とも思うけど、研究されたり固定概念が変わる一つにはなるし
個人的な趣味の研究なら 学者の先生はぜひどぞどぞ てかんじ。
まぁ 世の中や 精神世界に 祓いが必要なのはもとより、
清く美しい崇高なものや母性、真実性に、
大衆が惹かれていて、必要ともされている、そんな映し出しともいえますな。皮肉ですよ笑
…
それまくるけど、そんなこんな 思いつきの旅に付き合わせた人(最近アシ化…)も 適当な経験となったようで なによりだし、貴重なご縁の時間もあったし
一期一会の出逢いと場と感謝を 胸に、いまも次なる人生の旅の最中であります。
わたしといえば、実はなかなか忙しいのに、たましいは退屈もしている。
視野がワールドワイドすぎると、 “このへんはもっと世の中を良くしたいし、素敵を増やそう” という動機は自然と出るし
が、思うように手がつけられず
結局どこか退屈にもなる。
そして、心が平和だったり鎮静してると たぶん退屈にもなる。
いまは気分的に せまっ苦しさもあり、海外にも そのうち行ってみたいけどね。世界の文化がすき。
しかし我が家はそんなゆとりはないので 日々精進あるのみ?
あ、琵琶湖とか龍神やらなんやらだっけ
…に限らず、人間の心や波長が優しく整わないと
自然の霊的エネルギーも 崇高さを保てないのです。
というより、人間に遣えて協力してくれるチカラでもあるから
人間こそが自ら 心の器を成長させ、目に見えない世界や生命や神秘への感謝と敬いを
意識で行動で、示していきたいものです。
神社とか聖地の場でなく、あなたのその目
の前の社会のなかで。
人工的な災害やAIや闇の権力支配も騒がれているが、
個人的には 人工の力よりも心・自然の摂理が 結局は自然だとも思うし、
そのひとつに 民衆がそれを必要としなければ存在できない という原理もある。
日本のメディアも政治も、楽しみ必要とする民衆がいるから 存在するわけで。
(事実ある作為的なことに対しては、必要なければ必要ない・NOを示すことは必要だし
実際、問題は山積み崩壊中だから 自然まかせではいけないよ)
まぁ人間も、そのへんの祀られてる霊体も すべて未浄化。
だから存在するし。
他者がいなければ 向上しあえない、この絶対的に相対的な現世。
有能な人にしろ、神サマにしろ、その人だけの責任ではなく
まわりの人の無知や依存心、怠惰が、それらをダメにしてしまうことがある。例によって日本のメディアも。
自分のことが可愛いと、他者を赦せないものだ。
がんばる皆さん、動けるうちに 2回や3回は 心がポッキリ折れる経験しといたほうがいいよ、なんて思ったり。
なにが言いたいねん という毒のある
まぜこぜな散文は続きますが ^^;
この世や人生は 自由意思でありながら、
寂しさと愛おしさと 比較と 思いこみが絡みあい、前へ生きようとする世界。
自由意思とは 自己責任。
どこぞの神さまや、権威やブランドある人に指示されたり慰められたり、
魔法使いや 私欲を満たす豊かそうにみえる人
にでもならないと 存在意義を得られないような、
表面を生きる、からっぽな寂しいたましいたちが
然るべき形で導かれますことを。
彼らの純粋さと、優しき良心の存在、その魂の摂理に感謝します。
最終的に、もろもろ自分を棚にあげて 祈って終わった。笑